小柳正治

小柳正治仕事一筋に生きた男で、戦前ははだしで兜町を飛び回ったという。
 戦後、取引所が再開されたころには自転車に乗って、顧客の注文を取って歩いた。当時は自転車泥棒が多かったので、いつも自転車をかついでビルの屋上に運び上げたといった逸話の持ち主でもある。

 青少年期は不透明な部分が多い。23歳のときに上京し、第六商会という小さな株屋に勤め、外交員の一歩を踏み出し、丸玉証券、成瀬証券の外交員をやっていたというが、戦後本人の語ったところは次のようである。

 「専門学校を途中で投げ出して海外に放浪の旅を続けて4年、裸一貫で帰ってきたのが大正7年で第1次欧州大戦の真最中でした。『よし来た! 生きるためならなんでもやろう。素人も玄人もあるものか』と神戸でチャーター業を始めました。たちまち数十万円の金を手に入れました」

 小柳の語るチャーター業とは船舶のことだろう。当時、神戸を根城に内田信也、山下亀三郎、山本唯三郎、勝田銀次郎たちが船舶のチャーターで奇利を博し、船成金四天王ともてはやされていた。小柳はおそらく成金たちに付和雷同しているうちに生来の博才がものいって大もうけしたのであろう。そして夢と野望を抱いて兜町の客となる。

 現物取引などまだるっこいとばかり先物を買う。全財産の3倍もの株を買い込んで、上州の名湯、草津温泉で湯もみしながら値上がりを待っていた、というからいい気なものである。たちまち暴落に見舞われる。欧州大戦中といえども、株価は決して直線的な右肩上がりではなかった。起伏に富んだ複雑な動きを繰り返している。北浜の大相場師岩本栄之助がピストル自殺したのもこのころだ。

 にっちも、さっちもいかなくなった小柳は宿代も払えない。「大坂屋という宿屋の番頭を馬(付き馬。不払いの遊興費等を受け取るために遊客に付いていく人)にして乗って帰った。当時の損が約50万円くらいでしょう」。今日の価値に直せば、ざっと5億円の損だろう。この時、小柳は思い知った。「世の中に株ほど恐しいものはない。しかし、これほど面白いものはない」。こうして30歳にして兜町の店員になり、営業に従事する。

 昭和6年には1本立ちして小柳商店を開業するが、同11年欲をかいて大失敗する。実は前年、東洋レーヨンの株式が公開された時、三井の関係者から40円で1万株分けてもらった。その時「100円になったら売り放せ」といわれ、自分もそう決めていた。そしてとうとう100円台に乗せ、60万円の利食いを楽しみに、自ら立会場に乗り込んで手じまいするつもりが、逆に1万株を買い乗せてしまった。一瞬の心の迷いと本人は口惜しがるが、「隴(ろう)を得て蜀(しょく)を望む」気持ちが働いたのであろう。その数日後、2.26 事件の勃発で株価は大暴落、当時の金で80万円の大損をこうむった。

 戦後の小柳は山崎種二と並ぶ相場功者と称され、「小柳が買っている」といえばたちまちチョウチンがつく勢いがあった。昭和27年正月号の経済雑誌でとうとうと相場哲学を語っている。

 「相場というやつは、学問でならず、実際でならず、その中間をいった一つのカンというもの、これが相場哲学である。現在は金詰まりで、誰もが株を売りたいのが本当であろう。ところが、実際は逆に買っていかなければならん。これが一つの証券哲学である。…人間の利殖心理からいって、投機というものはやめられないものである。これは人間の本能なのだから」

この年、朝鮮動乱特需で株価は奔騰、東証ダウは200円から400円に迫り、小柳の強気観は的中する。

 日本化薬社長の原安三郎の知遇を得て、原の機関店として確たる地位を築いたが、昭和33年の船株暴騰の際、生来の強気で買いまくって破綻、小柳証券は山一証券に身売りする。65歳。自身は千代田生命保険の外交員となる。証券の外交で始まり、保険の外交で終われるのも奇しき因縁である。

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