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zoom RSS 久原房之助

<<   作成日時 : 2006/05/01 10:58   >>

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 藤田組創始者 藤田伝三郎の甥  山口県出身
 
 慶応義塾卒業後まず森村組に勤務するが、藤田組に転じ、小坂鉱山の経営刷新に努めた。
 1903年藤田組を退社後、1905年に茨城県の赤沢銅山を買収し、これを日立鉱山と改称して独立した。
 最初の増資は大正5年で25円払い込み、80円のプレミアム付きで10万株を公募。この「新株プレミアム付き売り出し」という手法により久原鉱業株は上場するとたちまち408円にまで高騰、すさまじい人気を呈し「国宝株」などと呼ばれた。
 大正6年には第2回増資で資本金は7500万円に達し、満鉄の2億円に次ぐ巨大資本を誇った。

 久原は「無目的の投機師」などとも呼ばれたが、第一次世界大戦の勃発とともに商品市況が銅価格暴騰となり、結果として先を読み切って大胆に勝負したことにより運をつかんだ。

 欧州大戦休戦が当時の久原にとっては最大の懸念であったため、久原はパリ支店主任として赴任する倉林賢造に対し厳令を下し

      大戦終結の兆しが出たらすぐ知らせろ

と指示した。
 相場の潮目を読むタイミングとして、買いから売りへ、180度転換しなければならないからだ。

 その暗号を「プラチナ高い」と決めてあった。

 大正7年9月24日、倉林はパリ大使館の武官から休戦近しの情報をつかむと「プラチナ高い」と打電したものの受け取った社員は意味が分らないまま引き出しにしまってしまった。

 プラチナ電報は日の目を見ることなく、久原商事はさまざまな商品を先物契約で買いまくり、船舶などは強気にも2年契約でチャーターした。
 この2カ月後ドイツは休戦を申し入れ、400円台の株価はたった28円に暴落した。

 しかし、破産は免れ、昭和2年、義兄である日産コンツェルンの創始者鮎川義介に後を託し、みずからは政界に転じた。
 いきなり昭和3年田中義一内閣で逓信大臣に就任、怪物と呼ばれる後半生に入った。
   

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